ホテルや旅館など宿泊施設の廃墟を集めてみました。
多くのホテルがバブルの時代に全盛期を迎え、その後バブル崩壊とともに廃業して、そのまま朽ちて廃墟化していく流れを辿っています。
建物の規模や歴史からか、心霊スポットとして知られる廃ホテルも目立ちます。
崩れかけた壁に描かれた芸術ともいえるグラフィティアートも見どころのひとつですね。
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摩耶観光ホテル
場所・営業期間
所在地神戸市灘区の摩耶山中腹
開業1929年11月 閉業1970年
通称「マヤカン」とも呼ばれる摩耶観光ホテルは、軍艦島に次ぐ人気を誇る王道廃墟スポットです。
(鉄筋コンクリート造で、神戸の街から遠目で見ると軍艦のような外観に見えるので「山の軍艦ホテル」と呼ばれることもありました)
アールデコ風のユニークな建築で、廃墟化し朽ちていく空間の中に天窓から降り注ぐ光はとても美しく、廃墟の女王としても有名です。
摩耶観光ホテルの歴史
1929年5月から摩耶鋼索鉄道が建設を開始し、11月に開業しました。
1944年に第二次世界大戦が激化し、摩耶鋼索鉄道摩耶ケーブル線 が不要不急線として運行が停止され、それに伴いホテルも1945年に営業を休止します。
その後ケーブル会社から民間業者に売却されます。空襲で多大な被害を受けた為復旧が遅れましたが、内装は1959年春に大阪で解体された豪華客船「ふらんす丸」より装飾品などを買収し、1961年に全面改装の上で営業を再開しました。
わずか6年後に昭和の3大水害と言われる豪雨が建物を襲い土砂崩れが発生し、1967年頃にホテルの営業停止を余儀なくされます。
1974年頃から常駐の管理人が入り、ホテルの一部を学生のゼミ合宿やサークル合宿専用の「摩耶学生センター」として格安で提供されました。
1993年に管理人の体調不良により学生の合宿所としての使用も停止され閉鎖しました。
1995年の阪神大震災で建物内に亀裂が入るなどの損傷が見られ、完全立ち入り禁止となっています。
2017年に摩耶遺跡ガイドウォーク企画の中で外観のみ見学ができるようになりました。
外観に負けず劣らずのドラマチックな歴史を歩んできたのですね・・・。
バブル期に建てられたホテルが多い中、戦前から存在していというのも特別な重みを感じます。
摩耶観光ホテル 名称の変化
- ケーブル会社の福利厚生施設として営業開始した時は「摩耶倶楽部」
- 第二次大戦前から戦中は「摩耶ホテル」「摩耶山温泉ホテル」「摩耶山温泉」
- 戦後の改装後は「摩耶観光ホテル」「摩耶国際観光ホテル」
- ホテル閉鎖後の1970年頃から1994年頃まで「摩耶学生センター」
鬼怒川温泉郷 廃墟群
場所
所在地栃木県日光市の鬼怒川上流域
鬼怒川温泉は「東京の奥座敷」と呼ばれ、年間200万人以上の宿泊客で賑わう関東有数の人気温泉街です。
それ故、鬼怒川の両岸には数多くのホテル・旅館が群をなして立ち並んでいます。
しかし東岸に並ぶそれらのホテル群はほとんどが廃墟と化していて、対岸の営業中のホテルから見えるその異様な光景は、なんとも言えない不気味且つ不思議な雰囲気を醸し出しています。
鬼怒川温泉が廃墟群になってしまった理由
日本有数の観光地でありながら、なぜ多くのホテルが廃業に追い込まれこれほどまでの巨大な廃墟群が誕生してしまったのでしょうか。
バブルの崩壊
1980年代後半から90年代はじめのバブル景気で、隆盛を極めた宿泊業界は旅館やホテルの大型化・新規立地が進みます。
首都圏からの交通の便がいいことも人気に拍車をかけ、鬼怒川温泉は1993年のピーク時には訪問客が年間340万人にも達します。
また、温泉地でいえば団体客が大挙して押し寄せた頃でもありました。
そうした需要に対応できるような大型観光ホテルといわれる施設は需要に呼応し、そのスケールを益々拡大させていったのです。
しかしバブル崩壊後は、団体旅行(特に会社の慰安旅行)の減少・レジャーの多様化・円高に伴う海外旅行の一般化などの構造的要因もあって、全国的に温泉街が経営的に一層苦しくなっていきます。
鬼怒川温泉も例外ではなく、高度経済成長期終了とともに客足はみるみる遠のき、廃業するホテル・旅館が増えていき、その結果あの廃墟群が生まれてしまったわけです。
足利銀行の破綻
鬼怒川温泉の多くの宿泊施設は、地元の足利銀行をメインバンクとしていました。
地元経済基盤を支え融資を行なっていた足利銀行でしたが、2003年11月に経営が破城してしまい、融資に対する基準が厳しくなってしまいます。
鬼怒川温泉はこれまで経営が厳しかった為、不良債権が発生してしまいました。
バブル崩壊による観光客減少だけにとどまらず、足利銀行の経営破綻もとどめを刺すかたちとなり、鬼怒川温泉の廃墟化は加速してしまいます。
自然災害と観光施設の衰退
2006年11月に鬼怒川温泉の観光スポットだったウェスタン村が休園(事実上の閉園)します。
そして、2011年の東日本大震災による風評被害から日帰りを含め観光客が激減してしまい、それに伴いTEPCO鬼怒川ランドが閉園、日光猿軍団も2013年12月末で解散となってしまいます。(2014年10月に記念館として営業再開)
また、それまで不良債権問題を免れ自主経営を続けてきた中小の民宿・旅館や店舗の廃業が相次ぎます。
その後も2015年の豪雨による水害もあり、これらの自然災害は温泉街の経営に打撃を与えただけでなく、既に廃墟化していた数々のホテル・旅館に物理的なダメージを与え危険性を高めたのです。
なぜ廃墟化したホテル・旅館は取り壊されないのか?!
一部の廃墟マニアを除き、窓から見える廃墟は景観を害する上、崩壊の危険さえもあって温泉街にとってはマイナス要素でしかないにも関わらず、なぜ未だに解体されず放置されているのか?
それには様々な大人の事情がありました。
莫大な費用がかかる&所有者が不明
鬼怒川に立ち並ぶ廃墟を解体するには、なんと1棟解体につき2億円以上も必要なんだそうです。
本来費用は国と日光市と所有者が支払います。
しかし、ほとんどの建物が所有者不明の為、実際は市が払うことになり、多大な解体費用は市民の税負担になってしまうことから現実的に手をつけられない状況になっているようです。
そもそも所有者が分からないので、解体の許可の確認すらとれない状況なのです。
廃墟群の位置が問題
集客の要である鬼怒川温泉の源泉は、廃墟群の地下にあるんだそうです。
そのことも廃墟群を解体できない理由となっているそうです。
また、国道が近くにあることも解体を困難にしている要因みたいです。
ごま的 鬼怒川温泉郷の魅力
なんといっても鬼怒川温泉郷の魅力は、廃墟群と普通に営業している所が共存していて、現実と時が止まった世界が入り混じった不思議な感覚が味わえるところではないでしょうか。
一般客にはマイナスイメージでしかない鬼怒川温泉郷の廃墟群ですが、廃墟マニアにとっては、むしろそれが目的にもなりうる程の壮大な廃墟空間でもあるのです。
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信州観光ホテル
場所・営業期間
所在地長野県千曲市(信州戸倉上山田温泉)
開業1951年11月 閉業1997年
戸倉上山田温泉の高台に存在した信州観光ホテルは、温泉街を見下ろす巨大ホテルでした。
「S観光ホテル」とも言われていて、廃墟の中でも心霊スポットとして有名で、肝試し目的で訪れる人も少なくありません。
また、度重なる増改築により内部が迷路のような構造になっていたり、隠し部屋の噂もあったりして、なかなか濃い廃墟ホテルなのです。
信州観光ホテルの歴史
信州観光ホテルが存在した上山田温泉は、戦後1949年の善光寺御開帳と平和博覧会が長野県で開催されたことがきっかけとなり発展しました。
1951年に、その善光寺参りの湯治客を目当てに創業したのが信州観光ホテルです。
ごまメモ
長野オリンピックも控えていた為、観光客目当てで同じようなホテルや旅館が多数立ち並ぶこととなりました。
増改築を繰り返し巨大迷宮ホテルへ
最初はささやかな木造3階建てからのスタートでしたが、活気づいていく町とともに、また高度経済成長期の波にも乗り、増改築を繰り返し、400人収容の客室、350人収容の宴会場、コンベンションホールなどを整備する大型ホテルに成長していきます。
バブル経済が始まった頃の1986年4月期に信州観光ホテルはピークを迎えます。
しかし、ピーク後の売上は横這いとなり、1992年に売上曲線はついに下を向き始めるとともに、増築のための多額の借入金が経営を圧迫し始め、毎年5000万円を超える赤字を出して債務超過に転落してしまいます。
1996年に信州観光ホテルは、負債総額16億5000万円で長野地方裁判所に商法整理を申請し、計5000人を超す予約キャンセルが殺到しました。
当初は、裁判所監督の下で細々と営業を続けながら再建を図る予定でしたが、再建計画は頓挫してしまいます。
1997年8月、長野地裁は信州観光ホテルに対して破産を宣告し、同日内に営業が停止し33人の正社員と21人のパートも即日解雇となりました。
廃墟化後は解体と中止が繰り返される
旧信州観光ホテル跡地は、2011年から2013年にかけて長野県滞納整理機構へ移管され、公売にかけられたが入札者はなく推移していました。
その後、2018年3月に群馬県の業者が土地・建物を取得し、同年8月から解体に向けて調査が行われました。
2019年初旬に敷地内に複数の重機が入り、建物一部解体が開始されましたが、アスベストの検出や台風の影響により解体と中断が繰り返されます。他にも、歴史遺産としての価値を懸念する声や解体の際にかかる高額な費用のせいでなかなか解体作業は進みませんでした。
2020年3月より解体作業は再開され、2020年5月30日時点で本館山際部分がほぼ解体され、上層階の解体がかなり進み、前側壁面を残した状態となり、同年9月には本館部分は解体がほぼ終了し、増築部分の解体が行われています。
心霊スポットとして有名な信州観光ホテル
巨大廃墟として有名な信州観光ホテルですが、実は心霊スポットとしてもかなり有名なようです。
自殺の名所とも言われ、数々の心霊現象が確認されています。
一体どんな心霊現象が起こるのか?!体験談や目撃情報を紹介します。
写真を撮ると心霊写真が撮れる
信州観光ホテルで撮れる心霊写真は、姿形がハッキリしたものではなく、オーブや赤い光が写ると言われています。
特に地下へと続く扉付近で撮影すると多くの斑点(オーブ)が写ってしまうようです。
声や足音が聞こえる
ホテル内部に入ると、聞こえるはずのない人の声や謎の足音が聞こえることがあるそうです。
風の音ではないかとも言われていますが、真相は謎のままです。
隠し部屋の噂
信州観光ホテルの地下部分には扉があり、その扉は隠し部屋へと続いているという噂があります。
かなり不自然な場所にあるようで、心霊写真が撮れたり声が聞こえたりするのはこの扉付近が多いそうです。
増改築を繰り返した結果、内部はかなり複雑な構造になっているらしく、巨大迷路のようになっています。
ホームレスの自殺
ホテルが廃墟化した後はホームレスが住み着き、その後ホームレスはホテル内で自殺してしまったそうです。
実際に自殺だったかは不明ですが、閉館後にホテル内で人が亡くなったのは間違いないようです。
中城高原ホテル
場所・営業期間
所在地沖縄県中頭郡中城村
建設開始1970年代 解体2019年
中城高原ホテル(なかぐすくこうげんホテル)は沖縄県中頭郡中城村の中城城跡公園内にあったホテルで、戸建て風の大小17棟が連なり、展望棟やプール、沖縄初の遊園地やゾウのいる動物園を備え、延べ床面積1万1千平方メートルの巨大施設でした。
地元では別名「チャイナタウン」とも呼ばれ、沖縄県民ならば誰もが知っている有名廃墟として存在していました。
1970年代に建設されたものの、建設途中のまま工事が中断し1975年頃に放置されたといわれていますが、その一方で、解体決定時に「数ヶ月間だけ営業していた」とする報道もあります。
2019年に解体が開始されるまで40年以上にわたり廃墟として残っていました。
ごまメモ
1996年には中島みゆきのシングル『たかが愛』のプロモーションビデオのロケ地として使用されています。
今は無き幻の中城高原ホテルの歴史
中城城跡は、1955年に琉球政府文化財保護委員会により重要文化財として史跡・名勝の指定を受けました。
その後、中城城跡の管理や運営を行っていた中城公園組合が、観光客誘致のために「中城高原ホテル」建設を決めます。
当初計画の建設地は城の本丸でしたが、これにより前述の文化財指定が取り消される可能性がありました。
この問題に対し、組合側はホテル建設による文化財指定解除の申請も辞さない態度を取り、一方の委員会側も「文化財毀損における刑罰」と組合側との対立の姿勢を見せます。
この問題は政治問題化し、県民の世論を沸かせましたが、最終的にはホテル建設を本丸から城壁外の高台に建設場所を変更することで決着しました。
その後、1975年に沖縄海洋博の開催が決定したのを機に、当時の沖縄県の実業家・資産家として知られた高良一により、1970年代前半に建設が開始されました。
開業しないまま廃墟化に至るまでの経緯
海洋博開催直前に建設をしていた企業が倒産してしまいます。
また、沖縄本土復帰に伴い、アクセス道路が文化財保護区域に指定されたことから、建設途中のまま工事が中断し放置されたと言われています。
もし完成していたら、当時珍しかったウォータースライダー付き遊泳プールや土産品店、レストランも設けられる予定でした。
ごまメモ
噂では、開業前に死亡事故が起きたとかプールで子供が溺れたとかで結局開業しないまま放置されたいう話がまことしやかに語られていたのですが、実際は1972年5月の沖縄の本土復帰から数ヶ月だけ営業していたみたいです。
2019年に惜しまれつつもついに解体が決定
1997年に沖縄県がホテル跡地を含む一帯の敷地を県営中城公園として整備開始した後も長年にわたり県とホテル所有者との間で補償交渉が難航していました。
2018年に沖縄県が所有者の一部と建物の残存価値に関する補償契約に合意し、県が首里城から続く宿道(中城ハンタ道)の文化財調査や、希少動物への影響調査、アスベストの適正処理などを行い解体することが決定します。
故・高良氏の御息女は「幽霊ホテルと呼ばれるよりは、地域のために生まれ変わってほしい」との思いから、ホテルの解体に踏み切ったそうです。
2019年月15日に安全祈願祭を行い、約2億円をかけて解体作業が開始されました。
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笠置観光ホテル
場所・営業期間
所在地京都府相楽郡笠置町
開業1962年11月 閉業1990年
笠置観光ホテルは、廃墟としてよりも有数の心霊スポットとして知られていて、各種メディアにも取り上げられています。
「K観光ホテル」や「笠○観光ホテル」などと紹介されていることもあります。
廃業後は解体途中で放棄されました。
激しい荒廃の中にグラフィティーアートな落書きが点在し、ガラスや壁の損壊と二つの吹き抜けが見どころの廃墟です。
笠置観光ホテルの歴史
笠置観光ホテルは、近くには笠置山十三重塔があり、桜や紅葉なども見られる観光スポットだった為、観光ホテルとして繁栄していました。
しかし、路線の廃止により笠置駅への都市部からの直通列車がなくなったこと、近隣にリゾートホテルが開業し客足がそちらに流れてしまったことにより経営不振に陥ってしまいます。
1983年から温泉が掘削され、笠置大光天温泉として営業されましたが、1990年に閉業(公式には休業)してしまいます。
その後一部解体作業が行われましたが、途中で放棄され廃墟のまま放置されています。
メディアにも取り上げられる心霊スポット
笠置観光ホテルは、元々「オーナーが焼身自殺した」「老婆の霊が出る」などといった噂から心霊スポットとして有名でした。
目撃情報も多く、度々雑誌やテレビで取り上げられる程でしたが、更に有名にしたのが2004年1月7日にテレビ朝日系列で放送された心霊バラエティ番組です。
その番組では、ホテル内を散策していたら背後に瞬きをしたりするような女性の霊が写り込んでしまったらしいです。
他にも、廃墟後にも火災による事件が多発していることなどから、面白半分で笠置観光ホテルに行くと火傷してしまうという噂まであります。
ホテル ラ・レインボー
場所・営業期間
所在地岡山県倉敷市
開業1988年 閉業1997年11月
瀬戸大橋開通後の観光客の増加を見込んで、最初は大規模ドライブインとして建設されました。
その後ドライブインは全館改装され、5階建ての大型豪華設備で世界一の高さを誇る回転式展望塔ラ・レインボータワーを備えた大型ホテルになりました。
「ラ・レイン○ー」「虹色ホテル」などと紹介されていることもあります。
ホテル ラ・レインボーの歴史
運営していたのは、岡山市内に2つのゴルフ場を持つ日本ゴルフ開発の子会社(株)ラ・レインボーです。
同社は他にも小与島にアクア小与島を建設、1992年3月には「ラ・レインボーカントリー倶楽部」をオープン、クルーズ船を2隻所有し遊覧やチャーターに供していたなど、瀬戸大橋ブームを過信して急激に事業を拡大していきました。
しかし瀬戸大橋ブームは長くは続かず、ブーム後の客足は思ったよりも伸びませんでした。
そしてバブル崩壊も追い討ちとなって、1997年11月にタワーはホテルごと閉鎖してしまいます。相前後してレストランも小与島のホテルも廃業を余儀なくされる結果となってしまいました。
2013年に解体作業が始まったとの情報もありましたが、2020年時点では現存が確認されています。
現在は多くのガラスに損壊が見られ、あらゆる所に人的破壊の痕跡が確認できます。
全国でも有数のグラフィティアートのメッカ
ホテル ラ・レインボー跡地は、グラフィティ(レベルの高い落書き)のメッカとしても有名です。
建物の壁という壁にグラフィティと呼ばれる大規模で高レベルな落書きが描かれ、落書きの域を超えた数々のアートは一種の芸術性さえ感じます。
荒れ果てた空間に放たれたグラフィティ達は圧巻の迫力です。
大川グランドホテル
場所・営業期間
所在地静岡県賀茂郡東伊豆町
開業1970年代 閉業2004年頃(不詳)
有名物件と名高い大川グランドホテルは、国道135号線沿いに建っていて、国道を走っていると必ず目に入る廃墟ホテルです。
地上4階建てほどの中規模施設で、プールなども備えていました。
「Oグランドホテル」「大○グランドホテル」「○川グランドホテル」などと紹介されていることもあります。
海岸沿いに建つ有名廃墟
立地的にかなり目立つため、昔から有名な廃墟物件です。
すぐ目の前が海という最高のロケーションですが、その分潮風による損壊が激しく、人的破壊に加えて自然倒壊による廃墟化が進んでいます。
土地は市の所有ですが、建物の権利関係が複雑で処分できず、そのまま放置されているそうです。
一応売物件だそうで、外壁には売物件の看板が設置されています。
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津山プラザホテル
場所・営業期間
所在地岡山県津山市
開業1974年3月23日 閉業2009年頃(不詳)
津山プラザホテルは、岡山県津山市にあった結婚式場やスカイレストランなどを供える大型のホテルでした。
高台にあり市内からも容易に確認でき、展望階や屋上からは津山の街を一望する事が出来ました。
「Tプラザホテル」等として紹介されていることもあります。
ごまメモ
その壮絶かつ美麗な様相から「岡山のマヤカン」とも呼ばれています。
エントランスにある階段の踊り場の光景が摩耶観光ホテルの額縁の部屋を彷彿とさせます。
津山プラザホテルの歴史
1974年に開業となっていますが、1978年開業という説もあります。
当時は津山を代表する大型ホテルで、6階建てで結婚式場やスカイレストランなどの他に複数の宴会場を備え、駐車場は150台収容可能でした。
正確な閉業時期は不明ですが、2001年時点では営業していたようで(2000年頃に従業員として働いていた方の記録があるのでそれ以降と思われます)、2009年頃までに廃墟としての言及が見られます。
2019年時点では、外壁や内部はブロックアートや落書きで埋め尽くされ、窓ガラスは割られているなど、かなり激しく人為的に荒らされた様子が確認できます。
老朽化による天井の剥落や一部で焼け焦げたような跡もあります。
また、窓ガラスのほとんどが割られている為風雨が吹き込み、一部の床は苔むして自然風化が進みつつあり、最上階のレストランは鳩の巣のようになっています。
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王朝ホテル(松籟荘千味万彩)
場所・営業期間
所在地石川県加賀市(山代温泉)
開業1954年 閉業2010年
石川県の山代温泉に存在した巨大ホテル・松籟荘千味万彩。
鉄骨鉄筋コンクリート造り11階建てで客室数は88室の大規模旅館で、王朝時代をイメージしたといわれる内装から「王朝ホテル」とも呼ばれています。
王朝ホテル(松籟荘千味万彩)の歴史
高度経済成長期の始まりの頃に開業した王朝ホテルは、好景気真っ只中でその歴史をスタートさせました。
バブル期に改築された建物には大展望風呂や大宴会場などの豪華設備が備えられていて、その豪華絢爛且つ成金とも悪趣味ともとれてしまう内装は、まさにバブルを象徴する造りでした。
景気低迷により売上が落ち込み、2010年に20億円の負債を抱えて倒産してしまいます。
2012年に競売などの破産手続きが終了し、その後はしばらく朽ちた建物だけが残り巨大廃墟と化しました。
2019年頃から解体工事が進められ、現在は解体され現存していません。
黒潮荘
場所・営業期間
所在地兵庫県洲本市由良町
開業1970年代 閉業1988年頃(不詳)
黒潮荘は、兵庫県洲本市にある宿泊施設跡です。
1970年代に開業し、閉業時期は不詳で1988年頃までは営業していたという説がありますが詳細はあまり知られていません。
2011年頃には既に廃墟として話題にされていました。
エントランスの、カラフルな照明傘によるポップな空間が有名です。
5階建ての鉄筋コンクリート建築で、海風による浸食の為か老朽化が進みかなり荒廃した状態です。
地元では肝試しスポットとしても有名だそうです。
「K荘」と紹介されていることもあります。
カラフルな照明傘や椅子がポップな廃墟空間を演出
黒潮荘の一番の見どころは、1階エントランスに広がる廃墟らしからぬポップな空間です。
オレンジと黄色のチープなランプの照明傘が、長年の天井の腐食によって垂れ下がり、独特なポップでレトロな空間を作り上げているんです。
また、放置された青や水色や黄色の椅子もカラフルな色合いで、更にポップさを演出しています。
椅子にはクマやパンダのぬいぐるみが座っていることがあるみたいで、世界観が広がりますね。
レトロ廃バスのおまけ付き
敷地内には味のある廃バスも放置されています。
こちらもレトロで可愛く、エントランスのポップさに負けない魅力があります。
ホテルセリーヌ
場所・営業期間
所在地長野県上水内郡信濃町
開業1977年 閉業1990年頃(不詳)
ホテルセリーヌは観光ホテルや旅館ではなく、ラブホテル(モーテル)として営業していましたが、廃墟本にも取り上げられる程、廃墟ホテルとしてはかなり有名な部類に入ります。
また、心霊スポットとしても全国トップクラスの最恐廃墟となっております。
その理由が、壁に描かれた「妊婦絵」と呼ばれる落書きです。
この妊婦の絵が謎過ぎる上、一緒に書かれている文章も不気味で怖さを増長しています。
「Sリーヌ」「○リーヌ」「セ〇ーヌ」「ラブホテルSN」などと紹介されることもあります。
壁に描かれた謎の妊婦の絵
ホテルセリーヌが有名になった理由は、建物内に描かれた12体の妊婦の絵の存在です。
その妊婦絵の落書きと添えられた文章が偏執的で異様な雰囲気を醸し出しています。
いつ誰が何の為に描いたのかは一切謎に包まれていますが、ホテルセリーヌにまつわる噂を辿って行くと、それらしいエピソードがいくつか残っています。
ホテルセリーヌで起こった事件
まず一つ目が、若い女性がここで複数の男に乱暴され妊娠してしまい、誰の子かも分からず精神的なショックで自殺してしまったという噂です。
妊婦絵につながる一番有名なエピソードで、自殺してしまった女性の霊がホテル内を彷徨っているという説が有力です。
また、ホームレスが集団リンチを受けた後に駐車場で焼き殺されたという噂もあります。
他にも、すべての部屋で仰向けの状態で亡くなった男女が発見されたという噂や、とある部屋にオーナー夫妻の写真があり話しかけてきて逃げれない心霊現象などが報告されています。
どの事件も実際にあったかは不明ですが、目撃されている霊は女性の霊が多いのと妊婦絵の存在からも、女性が暴行された事件はもしかしたら本当に起こってしまった事件なのかもしれません。
誰が妊婦絵の落書きを描いたのか?!
ホテルセリーヌ内には12体の妊婦絵が描かれていますが、そもそも誰が描いたのでしょうか?!
こちらも噂の範疇になりますが・・・ある男性が先輩に人妻との取り持ちを頼んだところ、その先輩に人妻を取られてしまった為、腹いせに妊婦の絵と異常な文章を描き残したと言われています。
一見、乱暴を受けた妊婦の心情を綴っている文章にも見えますが、膨らんだお腹に包丁が突き刺さった絵もあることなどから何を伝えたいのか分からない不気味さを感じます。
しかし、元々の妊婦絵に後から様々な落書きが上書きされていたり所々消されたりしているので、どこまでが元の絵なのか不確かな部分はあります。
ホテルセリーヌは廃業時期もはっきりと分かっておらず、事件や妊婦絵に関しても全てが噂や憶測のレベルなので、あらゆる真相は謎に包まれた怖い廃墟ホテルなのです。
まとめ
それぞれのホテルや旅館に深い歴史があり、廃墟となった後も新たな歴史を作り続けています。
かつては多くの従業員や客で賑わっていた空間が荒廃していく様は、なんとも言えない哀愁が漂っていますね。
現存する廃墟も、解体されてしまった廃墟も、過去の栄光とともにいつまでも廃墟マニアに愛される存在でいて欲しいです。
建物の構造からか、今回取り上げたほとんどのホテルに心霊の噂がつきもので、途中から廃墟の記事を書いているのか心霊スポットの記事を書いているのか分からなくなる程でした。
そして、なぜかほとんどのホテルの廃墟にはあだ名(?)が付いていて、通称で呼ばれているパターンがあるのが面白かったです。